高次脳機能センター←私が3ヶ月間だけ入院していた広島県立高次脳機能センターの病院のHP
9月二十8日木曜日
 
あんまり眠れませんでした だからっぜんぜんおひるねができません しんどいです
11月16日木曜日 
今日は右手が使えなくて
いらいらした。もう切断してやろうとさえ思った。後お箸で食べたけどおそっかった。クロスワードは遅いけどもうすぐ出来る。
 
11月20日月曜日
今日は美代子も遅く来てむかついたけど美代子がいないとしんじゃうと思った。けどホントに遅れないで欲しい。ビーズで沢山創ったからラブよ捨てないでね。
入院中はこんな字の大きさ (48 MSゴシック)、字も間違えてるし、かなりバカで今はそれを考えるとかなり良くなったのだなぁと、改めて思います。
 
《退院後すぐの感想》
 
 

恥ずかしいけれど正直に今自分に起きている症状を書きます。

恥ずかしながら、「大丈夫大丈夫」と、言いながら2006年5/10東京でバイク事故しました。結構地元の愛媛でも高校生のときから隠れてバイクで高校に行っていましたから、自信はありました。結構ムチャはしてましたのでしょうが、ミッションでクラッチ付きのゴリラに乗っていました。あの頃は今でも楽しかったと思います。何処へ行くにしても乗っていました。車の免許も当然ながら持っていました。でも今は視力がいくらレンズを変えてメガネをしましても0,5しかありませんし、左があんまり見えないので運転はもう絶対無理です。このパソコンで打っていても左の文字が見えません。あとパソコン場で場所を示す矢印も探す事がほとんどです。大学は国立の愛媛大学に行っていました。そのとき大学を辞めて小学校4年生の頃からやりたかった、映画の道に進む事に決めました(だから大学は中退しました、東京で暮らす為や、専門学校に行くお金は、自分でバイトをして約200万貯めました。)。でも私の家は私が中学生の時に父が亡くなりお金が全くなく(私も高校から奨学金を貰っていたほどです)、東京で映画の仕事をするために、母にも内緒で東京の専門学校を受験しました。何故内緒にしたかと言いますと、言ってしまったら絶対反対されると思いましたから言えませんでした。私は大学を休学して200万貯めるまでバイトとか4つ掛持していましたし、ほとんど毎日ぐらい家に帰るのは朝の4時でした。やっぱり親に正直に話したときは怒られましたし、お互い泣きました。やはり伝えなくて正解だったと思いました。でも行かなければこんな事故もしなかったのだろうと考える事がよくあります。

事故してからは不自由なことがいっぱいあります。辛いのは記憶がすぐになくなることです洗面所の体重計から自分の部屋に帰るまでに体重を忘れてしまうほどです。部屋に体重計を持って行っても駄目でした。体重計からパソコンを起動するまでに忘れてしまうのです。メモ用紙を持って行って記載すればよかったのでしょうけれど、字が書けれないから出来ませんでした。だから携帯を持って行って携帯に体重を保存していました。パソコンを起動してから行けば良かったのでしょうけれど、その時はそこまで思いつきませんでした。今こうして文章にしていて気がつくほどです。やはりパソコンで文章を書いている間にも何を記載しようと考えていたかを忘れてしまうほどです。思い出すまでに何分もかかる時があります。良く家族から「まだ考えていたの?こんなに長く!」もう思い出すのもしんどくて諦めてしまう事もよくあります。でもこれもリハビリ!と思い頑張っています。やはり寝て一日経ってしまうと昨日考えて朝しようと思っていた事を忘れてしまいます。あと食べようと思って買っていた物も忘れてしまい、言われたときにはもう賞味期限が過ぎているのです。今は左手で文字を書く練習をしていますがその時は練習もしてなかったのでまだ左手で文字を楽に書く事は出来ませんでした。左手でフォークやスプーンを使う事も苦手で姉に手伝ってもらっていたほどです。スプーンを使っても右手が震えるからよく隣の人までおかずが飛んでいました。その時はまだ右手が震えるから左手で食べた方が良いと分かりませんでした。スパゲティが大好きなのですが上手にフォークにパスタを巻き付ける事が出来ずに、よく姉に巻いていてもらったほどです。あとこのプリントをしたページを一枚一枚次のページにめくる事が出来ません。

まだまだ困る事はまだまだ沢山あります。物が見つからなくて困っている物も皆にお願いすると、直ぐ簡単にみんな見つけてしまうのが凄く不愉快です。例えばこの文章の間違いが沢山あるのですが、間違いの場所を見つける事が出来ないのです。あった場所は必ず聞くのですがほとんど私が一度は見た場所なのです。それがスッゴく不愉快です。

皆「頑張れば出来る、こうなって欲しい」とかよく言いますが私もそうなれば良いと思いますが、まだ凄くプッレシャーになるのです。病院の先生に毎日「生活習慣病になるし、足にも痩せた方が楽だから、痩せろ痩せろ!」と言われ今でもダイエットはがんばっています。毎日くらい予定が無くて行く事が出来る日はダイエットフィットネスにも行き、犬の散歩にも行きます。最初は一人で歩くのも危なくてみんな仕事とか子育てで忙しいのに皆ついて来てくれました。やはり一人で行くとバランスが悪いのと、視野が狭くて左が全く見えなく視力も悪い為、何度も転びました。痩せるためにダイエットクッキーとか食べていましたが、収入の無い私にはそれも凄く高いのです。痩せる為にデイスイミングにも行き始めました。まだちゃんと泳げませんし、息継ぎも出来なくなりましたからデイサービスのですけれども。水の中で歩く練習をしたりと、結構水の抵抗を受けて歩きづらいのだなと初めて分かりました。今までそのような事を思った事ももちろんありませんでしたから、分かりませんでした。あと100円ショップに売っている、プラスチックの軽い金魚を金魚すくいみたいなネットを使って震える右手ですくうのです。屋台の様な紙じゃありませんから破れたりはしませんけれど、でも全然最初は右手が震えて全然とれませんでした。事故をして歩くことももちろん出来ませんでしたから、ずっとベットに寝ているだけですから、体重が20キロぐらい太り、お気に入りの服が着れなくなりましたからショックでした。

もっと残念なことはお気に入りの服をもう着れないだろうと家族に思われて捨てられたことです。事故したときは医者に「もう死んでしまうかもしれないから、覚悟してください。命が助かってもきっともうベットから起き上がれないでしょう。」と言われたそうですし、「手術でバイキンが入ったら左足切断です!」とも言われたそうです。意識がまだありませんでしたから、全部私が直接聞いた話ではなくて、家族から聞いた話ですけれども。あと右手が震えますから文字を書くこともお箸を持つこともできませんし、お水の入ったコップやペットボトルを持って飲む事も中の飲み物がこぼれちゃうから出来ません。だからストロー付きの赤ん坊が使うような水筒で飲まされました。「私は赤ちゃか!!!」と、買って来た家族を怒りました。

包丁で料理をする事も出来なくなりました。病院では「もしかしたら右手の震えは、一生治らないかもしれない。」と言われました。この用紙もホッチキスで上手に留めることが出来ず、またクリップでも留めれません。次のページにめくる事も出来ません。今は左手で文字を書く練習を毎日しています。でも細かい動きは右手よりは左手の方が断然出来ますが全然右手に比べると力が弱いのです。だから左の手で缶を開ける事も出来ませんし、ペットボトルを開ける事も無理なのです。力のある右手で開ければ良いのですがそれも手が震えちゃうから無理なのです。特に蓋を閉めるのが一番難しいです。トイレットペーパーも右手では破れちゃうから上手に取れません。毎日右手で取る練習はしていますけれどそれも疲れるのです。事故をして入院当初は病院食も食べる事が出来ませんでしたから、点滴で栄養を取っていました。お腹のチューブを抜くのは引っ張るだけなので、手術室にも行きませんし、麻酔ももちろんしません。あんなに痛かったのは今までありません。もう絶対二度としたくないと思いました。あと私は老人ホームにずっといると思ってました。だって病院だから仕方がないけれど老人ばっかりなのです。

 最初は手が不自由なのでビーズでブレスレット作る練習をしたり、毛糸でマフラーを編む練習もしました。だいぶ早くなりましたが元気な人に比べればまだまだ遅いですし、穴が小さいと穴に糸を通すことが出来ません。普通のビーズでは無理なのです。だから特殊な穴の大きいビーズをわざわざ買わなくてはなりません。だから売っている場所も限定されてくるのです。普通の手芸屋さんに行っても無い場合がほとんどです。

視野も左の方は全然見えませんから左の方にいる人とか見えなくてよくぶつかりますし、映画館でも一番左に座ります。そうしないと映画が見えませんから。わざわざ首を左に傾けるまで時間がかかり見えませんし、障害のせいで、ストーリーも解らないし見に行っても残念ながらお金の無駄遣いになってしまいます。テレビももちろん同じです。よくゲームが好きでドラゴンクエストとかのRPG物をしていましたが、事故してからは、兄弟とかの助けがないと前に進めない事がよくあります。記憶が出来ませんから、洞窟などのダンジョンに入ると同じ道をグルグルしてしまい、迷ってしまうのです。

さらにテーブルの左の方にあるコップをよく落として割っちゃいます。だからプラスチックのコップを沢山買いました。視力も悪くなり今はメガネをしても0.5しかありませんし、動体視力が無いからテレビの字幕も見えないときがよくあり(動体視力も無いので読み終わる前に文字が消えてしまいます)、外国の映画でも字幕版は文字が見えないから日本語吹き替え版にしたりと、工夫している事は沢山あります。(これも知恵です)もちろん左の方がまったく見えないので映画館で席が空いていれば一番左の席にいつも座ります。あと文字が小さくて、本が読めませんから漫画を読む事も出来なくなりました。漫画を読む事は大好きだったからこれはかなりショックです。大事な本を読むときは虫眼鏡を使います。

最初はボタンをとめることが出来ず入院中毎晩、パジャマのボタンを留める練習を毎日してました。入院中は口笛も吹けず、毎日練習してました。別に吹けなくても良いのですが、動物も呼べないと思い、毎日練習しました。私の兄夫婦は二人とも獣医なので家には動物がいっぱいいます。動物はいれば心が和みますが、世話が大変です。この前はリスに指を噛まれいっぱい血が出ました。犬の散歩に行っても転んじゃう事はよくありましたし、犬のうんちを拾おうと思いましても、視力が悪くて見つからない時がよくあります。

服の着替えの時は、20分以上かかる事は普通です。しかも表裏や前後や左右の間違いは、沢山します。今でも手伝われる事は嫌なので全部自分が出来るまで何分もかけてします。でも何分もかけてしていると足、正確に言うと足首が痛くなるので、1分でも立っている事が今でも出来ません。椅子に座っていて足を地面につけていても痛いのです。凄く負けず嫌いだから自分で出来ないと凄く嫌なのです。それも凄く注意されました。「自分で出来ない事や手伝って欲しい事は正直に言いなさい!」と。今でも小さいボタンやジーパンのボタンを留めることが出来ないこともよくあります。あと携帯につける、ストラップも付けはずしが出来ません。エプロンなどの背中で(見えないところ)で紐を結ぶ事が出来ませんし、リボン結びなども全然出来ませんから全部固結びになってしまいます。手伝ってしてもらう事も出来ますが、手伝われる事は、さっきも書きましたけれど、嫌だからこれも困りものです。

体のバランスと、足が悪い為に、段差がないところでもよく転びます。普通に立っていて、お風呂の中に落ちたこともあります。お湯がありましたから大丈夫でしたけれど、お湯やお水が無ければ大変です。この間はテレビの前で転び電気製品を壊してしまいました。転んでメガネが割れた事もありますし、結構お金がかっかてます。事故してから転んで出来た傷は沢山あります。頭や顔やメガネを守りそのぶん手や足を怪我するのです。

 他の人に手伝われることによくイライラして怒ってました。だから正直に言うようにしたら「それぐらい前は自分でしてたのだから、遅くても良いから、ちゃんと自分でやりなさい!」と言われましたからもう言わないことにしました。脳の一部が健康なだけに皆のイライラする態度や顔が良く分かるんです。私の障害は高次脳機能障害と言うのだそうです。初めて聞いた時は脳が凄く障害がある人の事だと思いました。だから、「私脳みそは壊れてないよ!!!」と凄く怒りました。でも「記憶も出来ないのも、多分そうじゃないの?」と、言われ、仕方なくそうなのかなと、思い込みました。記憶力が弱いので、よく「そんな態度はしてない!」とか「あなたの思い違いじゃないの?」と、よく言われます・・・。それだけに辛いのです。

もう脳も少しではなく完全に壊れればいいと何回思った事か。死んじゃえばよかったと今でも思うときがたびたびあり、今でもあそこの屋上から飛び落ちれば死ねるとか、睡眠薬を大量に、一瓶まるごと飲めば死ねるとか本当によく考えます。車に敷かれろと思い道路に寝転んだ事もよくありました。母に「生きてるだけでも奇跡なのだからもっともっと頑張りなさい!」と、よく怒られます。

でもいくら家族といえども事故して辛い気持ちは私にしか分からないのだから、この気持ちを分かってもらおうと思っても無理なんです。夢も沢山崩れました。

正直自分でお風呂に入ることもしんどくて嫌でした。でもそれくらい出来なければ東京で一人暮らしがもう出来なくなると思い頑張っています。本当は実家にいても良いのですが、自分の夢を叶えるためには愛媛県にいるわけにはいけないのです。

あとタバコも大好きでした、でももちろん入院中や病院では吸えませんしそれはしょうがないからいいのですが家でさえ誰も吸いませんから反対されます。ライターも右手で火をつけるのは難しいです。お父さんの仏壇のろうそくやお線香に火をつけられない時があります。いつもお線香は短く折ってしまいますし。仏壇のお茶を変える時もお盆が無くては中味のお水をこぼしちゃうから出来ませんし。あと落としたお金を拾う事が出来ない事がよくあります。特にテーブルの上などの硬いガラスの上にあるともう取れません。お財布から上手にお金が出せないのです。自動販売機にお金を入れるのも出来なくてよくお金を地面に落としました。そうすると今度は上手に拾えないからまた困ることの繰り返しです。事故で動体視力もなくなりましたから以前大好きだったスロットをうつのが出来なくなりました。コインも入れられないし、右手では上手にボタンが押せません。動体視力も無いから前は目押しが出来ていたのに出来なくなりました。視力が悪くなったのは、事故のせいなのか自然となったのかまだ分かりませんが…。でも視野が狭くなった事は確かですし、私は絶対事故のせいだと思います。まだまだ困る事は沢山あります。これは本当に恥ずかしいのですが、笑いすぎると息が出来なくなり、尿漏れもよくあり、入院中は恥ずかしいから黒いズボンしか履きたくありませんでした。だから友達に会うときは生理用のナプキンをしてました。兄の家に行った時も尿漏れを恥ずかしながらしてしまい、義理の姉にズボンを貸してもらった事もあります。昔の兄の家の近くに田舎でしたからつくしを取りに行って転びました。そのときも笑って立てませんでした。ホテルのお風呂で笑いすぎて力が入らずに、立ち上がる事も出来ない事がありました。もし東京でそういう事があってはいけないと思いそのホテルでは力のある姉が引っ張ってくれたから良かったけれど一人暮らしをするとそれをしてくれる人もいませんし遠いから声も届かないので近所の人に助けを呼ぶ事も出来ません。だからお風呂に入る時は濡れないようにして携帯電話を持って入ろうと思います。どうすれば濡れないかまだ考え中ですけれども。それと毎回お風呂で何も持たずに立ち上がる練習をしています。200回くらいしても立ち上がれない日もありました、まだまだ練習が必要です。普通にカーペットの上に足を伸ばして座っていて正座は出来ないし、何も持たずに立ち上がれませんし立つ前の中腰になるのも無理です。今でもカーペットの上に膝をつけて四つん這いになる事は膝が痛くて出来ません。ごついクッションとかが無いと痛くて出来ません。あと布団の上などで歩く事は転んじゃうから立てませんし…。例えば駐車場によくある縁石の上を歩く事は転んじゃうから出来ません、入院中はリハビリでよく練習してましたが、この前にやってみましたが駄目で転びました。痩せるためにデイサービスのスイミングにも行っています。デイサービスは全部で週に3回行っています。初め自分が障害者と言う事は分かりませんでした。絶対違うと思っていました。でも障害者手帳を渡されそう思い込むしかありませんでした。はじめは東京で住んでいたマンションですら思い出せませんでした。あと東京の仕事の関係者の方も名前を見ても聞いても覚えれませんし、分かりませんでした。よく姉とかに名前を何度も聞きました。聞くだけではもちろん覚えれませんから、メモ用紙にメモする事が出来ないので紙に書いてもらうかそういう筆記用具が無ければ携帯にまたメモをして保存する事にしました。聞いても分かりませんし写真で顔を見ても分からない人が沢山います。名前を聞いても直ぐに忘れちゃうから、字も書けれませんのでパソコンや携帯に保存しています。人の名前とか。芸能人の名前とかも忘れてしまい思い出せないのでよく周りの人や姉に聞いています。スマップのメンバーですら最初はキムタクぐらいしか分かりませんでした。よく名前が出てこなくて愛知県に居る姉に携帯で聞いて教えてもらって携帯に保存しています。全然覚えられないから、母に何回も聞いて「お母さんも分からない、特に芸能人の名前は。もう答えるのも嫌!」と、言われました。しかし保存が多すぎてもう携帯に保存できなくなり消していかないともう保存できなくなりなした。

 あと何を言いましてもはっきりと発音が言えてない為に、皆から「何?何?もう一度言って!」と言われ必ず2回言わなくてはならなく面倒と思う事は多々あります。しゃべる事も結構力いるんだなと思いました。愛媛県の病院で退院する直前までドレミファソラシドの音階ですら言えなくて毎日病院の駐車場で練習してました。今カラオケはリハビリとして行っています。やはり仕方ないのでしょうけれど事故してからは凄く音痴です。それからは食べるところはもちろん、カラオケでもトイレは洋式があるのか確認してから行くようになりました。田舎ですから和式ばかりしかないのです。事故をしてからは、足を曲げる事が出来ず、洋式トイレが絶対必要です。人前で歌う事は事故する前は別に平気でしたが、事故してからは音痴ですから凄く恥ずかしいです。発声練習も週に1回は練習しています。

一度蕁麻疹が出て皮膚科の病院に行き「薬を飲むと眠気がきてふらふらして転びますよ」と言われました。

確かにふらっときて愛知県のツタヤで派手に転びました。愛知の皮膚科の病院の先生がそんな私を見て「これも薬のせいでこんな歩き方なの?」と、聞いてきました。すると姉は「もともと足が悪いのです。」と、答えました。それには今でも腹が立ちます。実の姉とはいえ正直むかつきました。「いや、事故してから歩き方が変なだけなんです。」と言いたかったのだと思いますが、それは酷いよ・・・と、思いました。確かに犬の散歩に行ってもよく転びます。もう転んでしまうのにもなれましたからいいのですが・・・。事故したのも自分が悪いのだからしょうがないのですが・・・(こんなに、障害を背負って、生きてゆかなければならないのか、と思うと正直うんざりしてしまいます。)。事故をした道にも行きましたが何も思い出せませんでした。事故をした道ですら思い出せませんでした。今は実家にすんでいるのですが、それも辛いのです。私は末っ子だからかもしれませんが子供と老人は昔から大嫌いなのです。実家には兄夫婦も住んでいるので、自然と甥っ子とも住む事になり、入院中も食べる席が前だった男の子も大嫌いでした。老人は同じ病室にいたお婆さんのせいです。夜中トイレに行っても「うるさい!」と怒るほどです。母は仕事の帰りよく病院に来てくれましたが、靴(仕事なのでよくハイヒールをはいていました)を脱いで病室に来ていました。人の事にはよく文句を言う割には自分の旦那がお見舞いに来て大きないびきをかいてベッドで寝ている事には謝ってもこないのです。一度母が小声で文句を言いましたが、聞こえてないのかいっこうに変化はありませんでした。前にその婆さんと同じ病室だった人も最後に文句を言ったそうですが全く反省してなく、普通病室でテレビを見るときはイヤホンをしなければいけないのですが、その婆さんはそれさえしてくれませんでした。うるさいのにムカついてタンスを強く閉めてやったら逆にこちらがまた怒られました。その前に同じ病室だったのは高校生くらいの女の子でしたが、その子も嫌でしたがもっと酷いのはその子の家族です。温厚な姉も「ムカつく」と言うのですから本当にそうなのでしょう。だってその子の母親が自分の子供に向かって「お前」とか言うし、なぜかお見舞いに病室に鈴をつけてくるのです。口は酷いはマナーは悪いは本当に同じ部屋になる人とは上手くいかないと言うか、運がありませんでした。よく眠れないから私は寝むれる薬を貰っていました。その時私は夜中の3時には起きていました。だって消灯が9時なのです。25歳の若い娘にとってそんな時間に眠れません。だから少し強い睡眠薬を貰いました。ですが夜のトイレはナースコールを押してトイレに行かなくてはならないのです(立てませんし歩けませんから)。恥ずかしながら肝心のナースコールが見つからなくて看護婦を呼べない、困った私はとうとうお漏らしをしてしまいました。

それは今でも考えてしまうとショックで恥ずかしいです。その日以来あんな恥ずかしい思いは嫌なので、しょうがなくオムツをして寝ていました。前歯も事故でなくなり25歳で前歯もないと困ると100万円しますがインプラントをしてくれる事になりました。インプラントの手術は麻酔をしてますが、凄く痛いのです。歯茎を切るのですもの。多分麻酔がしっかり効いていなかったのでしょう。痛いのですが、私はもう入れ歯をしなくていいんだと思い、うれしくて我慢をしてしまいました。入れ歯だと夜眠るときも、お風呂に入るときも外れてしまってはいけないので外さなくてはなりません。でも一度看護婦が間違って「あー!」と言いながら下水に入れ歯を流してしまいました。私はスゴック腹が立ち何度も家族に文句を言いました。歯が出来れば、家にも自信を持って帰れると思ったのです。その文句を聞いた家族は私をかなり怒りました。でもそのイライラは消えませんでした。貧乏な我が家にとってそれは大変な痛手でした。和式のトイレにももちろん行けないので、段差も少なく階段に手すりをつける為に家を高いお金を払ってバリアフリーにリフォームしました。玄関で椅子がないと靴を履けなかった私を知って建築士は玄関に場所を全く取らない壁に張り付いた椅子を造ってくれました。今でもそれはとっても便利です。使わないときは壁にくっついているのですから知らない人が来たときには分からないのですから。家をリフォームするのはかなりお金がかかりました。もうローンもできません。最初は車の後部座席にも足が痛くて座れなかったほどです。足が曲がらないので、お金が少ない我が家では、これだけでもういっぱいいっぱいです。父は私が中学生のときに病気で死んで母一人で子供3人を大学に行かせてくれました。本当に大変だったと思います。だから今本当に家計はピンチなのです。この暑かった夏でも朝からクーラーをつけたら怒られるぐらいでした。あと事故をしてからなぜかよく鼻水が出るのです。だから常にポケットティッシュを持っていますが、使いすぎてよく注意される事があります。トイレットペーパーも同じなのです。それだけ私の家の家計はピンチなのです。あと「昼間はなるべく電気をつけないように!」とも言われました。そんなこんなで本当に我が家の家計はピンチなのです。

私も本当に貯金が全くなく、働く事が出来ないから、家計を助けるわけにもいきません。逆に出費の原因が私なのです。私が事故をしてしまったせいで、どんどんお金がいります。お金がないとこれからどうにもなりません。まだパソコンとかが使えるからこうして文字をうつ事が出来ますが、事故する前はブラインドタッチも出来たのですが今は出来ませんから、左手で必死にうつだけだからかなり時間がかかります。ドラマや映画で良く言うOKとかNGのときに打つカチンコと言うのがありますがそれは片手で打つのですが今は上手に打てません。だからこれから仕事があるのか、あっても出来るのか不安です。最初は本当にPCの印刷方法ですら分からなく、「印刷出来ない出来ない!」と言って困っていたら、コードがささっていませんでした。そんな事も分からないのです。年金も払っていなかったから、まさかこんな事故になるとは思いませんでしたし、忙しくて払いにいく暇もありませんでした。だから本当は貰えるはずの障害者年金ももらえません。まさかこんなに若くしてオムツも入れ歯も車椅子も体験するとは思いませんでした。この前に愛媛県で入院していた、病院に行ってきましたがみんな懐かしくて話しかけてくれるのですが、私は3.4人しか覚えていなくてなんだか覚えられない事が寂しかったです。やはり足が痛くて遊園地(愛媛で言う梅津寺)の乗り物に上手に乗れませんでした。もうこれからどうすれば良いか若いだけに考えると不安です。

PSすいません読みずらい文章で。これでも何日も何時間もかけて何回も治した作った文章なんです。

 

2009年2月9日月曜日
 
今日は朝、煙草を吸いながら事故してこんな体になったけれど、仕事もしないで朝起きて,好きな手芸してゲームして煙草吸って大好きな猫と一緒に居れて事故してから初めて幸せダナーと思いました。こんな事思う自分にびっくりです。
事故して初めて良かったかも(?)と思いました。
あと入院中の日記をさっき改めて読みましたが、誤字が多くて、サイズがあまりにも大きくてビックリです。今も字を間違う事は大変多いのですが、今は間違えた事に直ぐ気付き、読み直して直せます、漢字が違う事は国語が苦手だから駄目ですけれど…。頑張ってこれからも生きていこうと思いました!!!
 

最近よくバイク事故で死んでしまった人の話を聞きます。それを考えると私はあれだけの事故をして生きていた事が本当に「奇跡」と、思いました。

死ななかった変わりに、沢山の障害が残り、苦労はしていますが、以前全く知らなかった病気の事やデイサービスの事を学べて、なおかつ毎日大好きな猫と暮らせて、前の仕事も当然出来ないから家に居て、むしろ幸せなのかも(?)しれません…。楽しいと思える刺繍をリハビリに毎日して、好きなパソコンを安く教えていただいて新しい電気製品を買っていただき、確かに入院中に(何処の病院かは言いませんが)PS2をテレビの棚から数回落とされて壊されてしまいましたが(謝っていただけましたが、弁償してくれよ、と思いました。確かに病院のおばさん看護婦はPSさえ解らないし、価値も値段も解らないのでしょうが、私はかなりショックでした…。その時は事故で前歯が折れて無くなり、入れ歯をしていたのですが、その入れ歯も看護婦の不注意で水道管に流されてしまい、かなりイライラしました。わざとではないし、こちらは入院して色々していただいている身ですから、文句は強く言えませんし…。誤っては頂けましたが、謝るならば弁償してくれよ!【いえなきこのセリフみたい…。】と思いました。)、働けなくて収入が全く無くて年金も殆どない私にはとっても高い(約5万)PS3をなんとか手のリハビリという理由で買ってもらえましたが…。事故してからは当然、前の仕事も出来ないのですが。まさか事故するなんて思っていませんでしたから年金なんてちゃんと払っていませんでした。(今から少しずつ収入を貯金していけば、大丈夫と思っていましたし…。)だからちゃんと払っていれば沢山貰えるはずの障害年金も殆どありません。わずかにほんのスコーシだけ母親が頂けるように手配していただけましたが。だから20代で仕事も出来ないし、わずかながらに年金を貰っていて、定年を迎えてしまった感じです。今は母の収入で生活は大丈夫ですが、母もあと1,2年で定年ですから、そのあとはどうしたら良いのか不安です。確かに兄弟も居ますが迷惑をかけてはいけないし、あちらにはあちらの家族や仕事がありますから…。確かに大変ですがその代わりに手に入れた物や知識も色々あります。今ではむしろ事故して善かったのかなぁ(?)と思います…。

(かなり無理矢理ポジティブ思考!!!でも、そう考えていかなくては、辛いのは私だけですし…!。

 

今では医者に一生治らないかもしれないと言われた右手の振るえと視野と足を奇跡を起こして直して治してやろうと努力中です!!!こう考えられる自分に本当にオドロキ!!!前は死にたい死にたいと言っていたのに…!!!

 

じゃあどうせ治らない病気ならば、どうすれば治るか?よりどうすれば楽しく生きていけれるか!を考えて生きていこうと思います!

 

 

2009/8/27家族に対する思い

 

まず母が検査入院【2週間ほど】することとなって一日だけ1人で暮らしてみて、まず思ったのは、もっと何にも出来なくて大変だろうと思ったし、何も出来なくて寂しくて泣いちゃうんじゃないかとか思ってました。

でも確かに1人じゃ出来ない事(足の爪切り・目元の化粧、耳掃除など)はあるけれど、毎日絶対しないといけないというわけではないし…。

なんとか出来ました!少し自信になりましたの(●^o^●)

時間配分も自由に私のペースで出来るし。

でも、母に凄く感心したのは、私の体が五体不満足なせいだけど、料理・食器洗い・掃除・洗濯・花の水やり・新聞取りなど(私が花などに全く興味がないせいだけど(*_*)

毎日している母にいまさらだけれど関心・感謝!!!

早く独り暮らしが出来る自信になりましたの!!!!!!!

一番強烈に思ったことは

独りで暮らしている独り暮らしと、家族が居た家での独り暮らしは、全然違うなぁと、思いました!

 2009/10/20 最終的な考え

もう事故してからは3年と半年くらいになりますが、よく考えると事故して退院した直後は何度も何度も死にたい死にたいこんなに障害のある体で生きていくくらいならば死んだほうがまし!!!と思い何度も車に轢かれろと思い道路に寝転びました。でも結局自殺する勇気も無かったし、逆に事故で死んでいたらどんなに障害が今よりも酷く残っていても生きていたかったと思うと思うし…

いまさらながら生きていて本当に良かったなぁと思います!

 

 

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